2010年3月2日~4日まで、元同僚の友人たちと奈良に行ってきた。
初日は、奈良国立博物館と結の会のイベントに参加した。
まず、奈良国立博物館の学芸部長の西山厚さんのお話を伺ったあと、博物館の特別陳列「お水取り」展を見学し、その後、東大寺本坊でお坊さまのお話を伺い、さらに少し早い夕食(とても美味しいお弁当)をいただき、最後にお水取り会場である東大寺二月堂へ向かい、お水取りを見た。とても充実した一日だった。
西山さんは、「仏教発見!」(講談社現代新書、2004年)という本を書かれた方で、この本を通して、仏教とは何かということを教えて下さった、私にとってはお師匠さんである。博物館でのお仕事のほか、全国で講演などを行って、大変ご多忙にも関わらず、私の下らないレポートやメールにも目を通してコメントを下さる、まるで仏さまのような方である。
西山さんが、お話の中で強調されていたことは、お水取りは、おたいまつが消えて、観光客が帰ってからが大切だということである。昔、災いや病気は、人間が悪いことをしているから起こるものだと考えられていた。でも、人間は、悪いことをやめることはできない。だから、謝ればよい。そこから、悔過(けか=罪や過ちをお詫びすること、懺悔すること)が始まった。そう、私たち観光客は、ついつい、おたいまつの炎の美しさに目を奪われるが、実は、東大寺二月堂の中で行われている、11人の練行衆の方々が、私たちに代わって、世界中のすべての人々の罪をお詫びし、すべての人々の幸せをお祈りしていて下さるのだ。
そもそも、お水取りは、正式には、「修二会」という。旧暦2月に修する法会という意味で、752年(天平勝宝4年)、実忠によって始められ、現在に至るまで、一度も中止したことがない、世界でも稀にみる素晴らしい行事である。修二会は、二月堂のご本尊である十一面観音様(絶対秘仏)の前で、悔過が行われる。もともと、おたいまつは、練行衆が二月堂に向かう時に、暗い足元を照らすためだけの炎である。それがいつしか、奈良の代表的な観光行事となった。
私は、おたいまつは観光名物であっても良いと考えている。人間は、火を使う動物であるとともに、火を見て興奮する動物なのだ。燃えさかる炎を見ることで、日常の憂さや不安が、一瞬でも消えて、夢中になれる。そして、炎は、私たちの罪や穢れや過ちを燃やしてリセットしてくれるようだ。
おたいまつが消えて、お水取りが終わっても、その炎の美しさに秘められた祈りを忘れずにいたい。
そして、この祈りが、何年後、何十年後もずっと続くように、祈りたい。