
今日、浜松のアクトシティで行われた認知症ケア学会に参加した。
一番こころに残ったのは、パーソンセンタードケア(その人らしさを尊重したケア)やDCM(認知症ケアマッピング)を広めたことで有名な水野裕先生の「理念を実践に」というお話だった。
今の日本の社会は、工業生産や経済効率が尊ばれる社会である。生産性や効率性が社会の原動力であり、それは、日本人の価値観や倫理観にも、無意識のうちに影響を及ぼしている。
現代社会では、効率性と生産能力が高い人が、「役に立つ」人、「価値がある」人として評価される。そして、生産できない人は、「役に立たない」人、「価値がない」人として、とらえられがちである。
つまり、高齢者や認知症の人、病気や障害をもった人は、生産能力が低いため、社会の中で「役に立たない」「価値がない」人として見られてしまう傾向がある。
そして、認知症ケアに携わっている私達も、生産できない人をケアしているとして、社会から軽視されがちであるのが現状である。
そもそも、認知症については、「認知症が進まないように(悪化しないように)するほうが良い」と、一般的に考えられており、認知症の介護・看護専門職でさえも、そのような考え方のもとに、ケアプランを立案している。でも、それは、日本人全体の意識の中に、「認知症になったら、不幸になる」という暗黙の差別・偏見があるからなのだ。
では、幸せとは何なのだろうか?
生産能力がない人は、生きる意味がないのだろうか?
私達がふとした瞬間に感じる幸せって、美味しいものを食べたり、好きなことや楽しいことをしたり、好きな人のそばにいたり、誰かにほめられたり必要とされたりする時ではないだろうか。
本当に幸せな社会とは、「役に立たない」と軽視されている人こそが尊重され、生きる意味や価値を認められる社会であるはずである。
人間は誰でも、生まれてきたからには、病気もするし、老化して、いつかは死ぬ。認知症になることもあるし、癌になることもある。どんな立派な人間でも、「生産できない」「役に立たない」とされる日がやって来るのだ。
人間は、仏教の教えによると、「生老病死」という苦をもって生きている。生まれてきた瞬間から、死に向かって、苦しまなければならない運命を背負っている。
さまざまな苦しみや試練を背負ってまで生きている意味や目的は何だろう?
生きる意味も、幸せの価値観も、本当のところはまだわからないけど、もしかしたら、それを教えてくれるのは、認知症の人たちかもしれない。「役に立たない」と軽視されている人こそ、実は一番「役に立つ」人かもしれない。
ちなみに、スズランの花言葉は、「幸せ」。誰かの幸せを祈るこころが、本当の幸せなのかもしれない。
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