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あをによし 奈良の都の 薬草曼荼羅

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いのちの木

今日、法事でお坊さんのお話を聴いた。

お釈迦様は、「無憂樹(ムユウジュ)」(マメ科)という木の下で生まれ、「菩提樹(ボダイジュ)」(クワ科)という木の下で悟りを開き、「沙羅双樹(サラソウジュ)」(フタバガキ科)という木の下で亡くなった(これらの3つの樹は、仏教の三大聖樹とよばれている)。沙羅双樹はもともとピンク色の花であるが、お釈迦様が亡くなったときに、白になったという。
また、お釈迦様は、草原の中の、一本の大きな木の下で説法することが多かったが、そのような木のことを、「道場樹」という。木の下というのは、人が集まる場所でもあり、いのちが生まれ、育ち、死んでゆく場所でもある。
幸田文の『木』という本では、「倒木更新(とうぼくこうしん)」ということが書かれている。東北のエゾマツは、100年くらい経つと倒れて、数年かかって腐るという。腐った木の穴に種が落ち、芽を出し葉を出して、次のいのちがつながっていく。木のあるところには、いつもいのちがある。倒木更新は、原生林のようなばしょでしかみられないそうだが、ひとつのいのちが死んでも、なお新しいいのちを育み、いのちをつないでいる。このような木(森、原生林)は、歴史をもち、条件をつけずに、すべてのいのちを支えている。
…というような内容のお話だった。

木は、よく人生の成長発達にたとえられる。
木は、ひとつの小さな種から芽を出し、葉を出し、枝を伸ばして、花を咲かせ、実を結び、そしていつの日か枯れていく。太陽の光や空気や雨水や大地(風火水土)の恵みを受けながら、虫や鳥とも共存して生きていく姿は、人生がたったひとりではないということも教えてくれる。
木は、私たち人間に、良いとも悪いとも言わず、ただそこにいてくれている。
そして、いのちを支えている。

人はいつの日か寿命を終えて死を迎えるが、死んでもなお、残された人々のこころに残っている。良いことをしたとか悪いことをしたとか、誰かの役にたつとかたたないとか関係なく、どんな人のいのちも尊い。そのことに感謝して、生きていきたい。

tone

(下の写真は、関係ないけど、数年前に見た東大寺の紅葉)


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# by tonepedra | 2012-12-07 21:18 | 人生の教え/生きる智慧

鎌倉散策と表現アートセラピーのワークショップ

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11月のある日、職場のスタッフを対象に、鎌倉散策と表現アートセラピーのワークショップを行った。

当日、鎌倉は、午前中は秋らしく爽やかな気候で、午後からは風が強くなって寒くなってきた。しかし、雨が降ることはなく、よい一日だった。紅葉はほとんど緑色だったが、ほんのり色づき始めているものもあった。

最初は、建長寺に向かった。建長寺では、仏殿や庭園を拝観したあと、長い階段を登り、半僧坊まで歩いた。
半僧坊からは、鎌倉の山と海の景色がよく見えて、トンビが飛んでいた。秋の風は爽やかで気持ち良かった。そこで、私たちはしばらくの間、瞑想をした。瞑想をしている間は、自然を五感で感じ、自分を静かに見つめる時間を過ごした。

次に、「鉢の木」というお店で、精進料理をいただいた。精進料理は、野菜の素朴な味が活かされていて、とても美味しかった。ごまどうふ、揚げた湯葉、野菜の炊いたんは、特に気に入った。皆で一緒に、ご飯もおかわりした。

昼食のあとは、円応寺に行った。円応寺は、閻魔大王をご本尊とする、十王信仰のお寺である。人間は亡くなると、三途の川を渡り、冥界に行き、初七日から三十三回忌まで、十王(あるいは十三王)の裁きを受ける。
たとえば、五七日(三十五日)には、閻魔大王の裁きを受け、来世で何に生まれ変わるかを告げられる。また、七七日(四十九日)には、来世での男女の区別と寿命が決められるという。
仏教の教えでは、生きとし生けるものは、6つの世界(六道)を生まれ変わり死に変わり、行き来する。六道とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上のことである。
私たちは、今は人間として生きているが、悪いことをすれば、死後の世界で格下げされ、最悪の場合は地獄に落ちる。たぶん、昔の人は、「悪いことをして、たとえこの世で隠し通せても、死んだら閻魔様はすべてお見通しだよ。悪いことをしたら、地獄に落ちて苦しむんだよ。だから、良いことをして生きていけば、死んだら極楽に行ける。死んだあとの次の世でも、また人間に生まれ変われるよ」という風に教えていたのではないだろうか。鎌倉仏教には、よく六道(特に地獄)を描いた絵画が登場する。かなりリアルに描かれたこわい地獄の絵を見せて、恐怖心を植えつけて、悪いことをしないように教育していたのではないだろうか。
ところで、閻魔大王は、生前悪いことをした人に対して苦痛を与えているが、閻魔大王自身も他者に苦しみを与えることを罪だと認識し、1日に3回、自分自身にも罰を与えている。ここに、閻魔大王の苦しみと慈悲を感じられる。
初七日から四十九日までは「中陰」と呼ばれ、あの世とこの世を行ったり来たりしているが、その間も、十王の裁きを受けている。四十九日には、来世の生まれ変わりの男女の差別と寿命が決定される。その後も、一周忌、三回忌・・・三十三回忌まで、十王の裁きは続くのである。現在の法事は、簡略化されて行われていることが多いが、それぞれの法要には意味があるため、その都度法要を執り行うことが、亡くなった方への供養になり、自分自身の善を積むことになり、また、愛する者を亡くした自分自身の悲しみを癒すことにもつながる。

円応寺のあとは、歩いて、覚園寺に向かった。
覚園寺は、鎌倉の自然と仏教が凝縮された、貴重なお寺である。拝観は時間制になっており、拝観時間は約1時間で、お寺の僧侶が案内をする。写真撮影は許可されていないが、その分、自分の目でしっかりと自然や仏像やさまざまなものを見つめ、目に焼きつけることができた。また、お坊さんのお話はとてもユニークで面白く、しかもためになるお話ばかりで、集中して聴くことができた。
興味深かったお話は、愛染明王が「欲をかなえる」仏様だということだった。仏教では、「欲望は悪」というイメージだが、愛染明王は、欲望をもつことを許し、その欲望を叶えてくれるという。また、恋愛成就の仏様ともいわれている。そもそも、人間は、欲なしでは生きられない。食欲や睡眠欲は生きるための基本的欲求であるし、性欲がなければ子孫繁栄もできない。欲は、生きる意味や目的を支えるものでもあるから、欲を悪とは考えず、大切にしたい。
また、境内に生えていたナギという木の葉っぱは、縦に切ろうとしても切れないことから、「縁結びのお守り」として、昔の女性は、嫁入り道具のひとつである鏡と一緒に忍ばせていたという。植物に、いろんな意味や願いがこめられているのは、大変興味深い。
覚園寺のご本尊は薬師如来で、両脇に日光菩薩と月光菩薩、まわりには十二神将がまつられている。薄暗い堂内であるが、どれもとても美しい。また、鞘阿弥陀(さやあみだ)という、珍しい仏像も拝観できる。

鎌倉散策を終えたあとは、甘味屋さんでお汁粉を食べながら、表現アートセラピーを行った。参加者に、小さな画用紙に、鎌倉で感じたことを描いてもらった。皆の作品は、写真の通りである。それらについて、ひとりひとり発表し、思ったことや感じたことを、皆で分かち合った。
参加者は、円応寺や覚園寺は初めてで、十王信仰についても知らなかったとのことで、死後の世界や法事の由来について知り、いろいろなことを感じたようだった。

日常生活では、死について考えることは少ない。でも、今回、鎌倉でお寺の仏像を拝んだり、僧侶の話を聞くことによって、死後の世界について触れることができた。生と死がいつも隣り合わせだということに、なかなか気づけないでいるが、そういうことをあえて意識して、生きている(生かされている)ということへの感謝の気持ちを忘れずに、日々を暮らしていきたい。

tone
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# by tonepedra | 2012-12-05 15:01 | 神社仏閣

大きな楠の木の下で

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今日は、午前中に研修会の予定だったが、突然中止になったので、近くにある千葉・大巌寺にお参りに行った。
お寺さんには、ご神木のような素晴らしいクスノキ(楠)があった(お寺さんなのに、ご神木というのも変か)。
淡い桃色のフヨウ(芙蓉)の花も美しく咲いていた。

クスノキの傍らには、こんな詩があった。


「一本の木を見つめていると」

一本の木を見つめていると
神とか仏とかいうものが
よくわかってくる
見えないところで
その幹を
その葉を
その花を
その実を
作っていってくれる
根の働きは
見えないところで
私たちを養って下さっている
神とひとしく
仏と同じである
見えないものを見る目を持とう
見えないものを知る心を持とう

(坂村真民『詩集詩国』第一集)


見えないものを見るということは、こころの眼で見る、ということである。五感を働かせ、第六感も働かせて、感性や感受性を磨き、こころを広く豊かにしなければ、見えないものは見えてこない。

私たちは、見えない力に支えられて生きている。それが、神なのか、仏なのか、自然なのか、宇宙なのか、よくわからないけれど、とにかく、何かに支えられて生きている。

一本の木をじっと見つめていると、何が見えてくるだろう?

クスノキの近くでは、アオスジアゲハが優雅に飛んでいた。来年も、この木からはたくさんのアオスジアゲハが飛び立つだろう。
時が来て、ひとつのいのちが死んでも、また別のいのちが生まれ、いのちは手をつなぎ、こころをつないで、続いていく。

生きる意味も、生きる目的も、本当のところはよくわからない。神や仏がいるのかさえも、やっぱりわからない。たぶん死ぬまでわからないだろう。

人の一生も、アオスジアゲハの一生も、クスノキの一生も、同じひとつのいのち。どんないのちも、見えない力に支えられて、見えないところでつながって生きている。

大きな楠の木の下で、夏の暑さと時折吹いてくる爽やかな風を感じながら、生きる意味や目的はわからなくても、生きる意欲をもちつづけようと思った。

tone
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# by tonepedra | 2012-08-24 11:32 | 人生の教え/生きる智慧

実家の庭の梅の木

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私が生まれる前から、実家の庭の片隅には、梅の木がある。何という品種の木かはわからない。
毎年、実を成らせて、たいてい梅酒か梅干しを作っている。梅の実を収穫するのは、父の仕事である。今年は、梅酒と梅サワーを作ってみた。母は梅ジャムを作ってくれた。

梅の木は、幹はゴツゴツして男性的なのに、花は香り高く可憐で清楚な女性のよう。そして、しっかりと根をはっている姿は、生きる力を与えてくれている気がする。

青緑色から黄色や橙色に色づいた梅の実は、杏のような甘酸っぱい香りがする。梅の実の香りをいつまでも嗅いでいたいという気にさせられる。梅の香りは、どうしてこんなに惹きつけられるのだろう。

木のいのちには、寿命がある。
人のいのちにも、寿命がある。
木も人も、生きているものは、いつか、老いて枯れてゆく運命だが、死ぬ瞬間が訪れるまで、いのちを大切にしなければならない。

老いることや枯れることは、醜いことでも恥ずかしいことでもない。病気になることや死ぬことも、本当はこわいことではない。
死ぬときは、ただ、自然に包まれながら、自然に帰っていくだけのことだから。本当の死は、あったかくて、幸せのはずである。


今年の梅の味は、どんな味がするだろう?同じように仕込んでも、毎年、違う味がする。今から楽しみである。

tone
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# by tonepedra | 2012-07-02 19:57 | 植物

生きる意味と幸せの価値観

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今日、浜松のアクトシティで行われた認知症ケア学会に参加した。

一番こころに残ったのは、パーソンセンタードケア(その人らしさを尊重したケア)やDCM(認知症ケアマッピング)を広めたことで有名な水野裕先生の「理念を実践に」というお話だった。

今の日本の社会は、工業生産や経済効率が尊ばれる社会である。生産性や効率性が社会の原動力であり、それは、日本人の価値観や倫理観にも、無意識のうちに影響を及ぼしている。
現代社会では、効率性と生産能力が高い人が、「役に立つ」人、「価値がある」人として評価される。そして、生産できない人は、「役に立たない」人、「価値がない」人として、とらえられがちである。
つまり、高齢者や認知症の人、病気や障害をもった人は、生産能力が低いため、社会の中で「役に立たない」「価値がない」人として見られてしまう傾向がある。

そして、認知症ケアに携わっている私達も、生産できない人をケアしているとして、社会から軽視されがちであるのが現状である。

そもそも、認知症については、「認知症が進まないように(悪化しないように)するほうが良い」と、一般的に考えられており、認知症の介護・看護専門職でさえも、そのような考え方のもとに、ケアプランを立案している。でも、それは、日本人全体の意識の中に、「認知症になったら、不幸になる」という暗黙の差別・偏見があるからなのだ。

では、幸せとは何なのだろうか?
生産能力がない人は、生きる意味がないのだろうか?

私達がふとした瞬間に感じる幸せって、美味しいものを食べたり、好きなことや楽しいことをしたり、好きな人のそばにいたり、誰かにほめられたり必要とされたりする時ではないだろうか。

本当に幸せな社会とは、「役に立たない」と軽視されている人こそが尊重され、生きる意味や価値を認められる社会であるはずである。
人間は誰でも、生まれてきたからには、病気もするし、老化して、いつかは死ぬ。認知症になることもあるし、癌になることもある。どんな立派な人間でも、「生産できない」「役に立たない」とされる日がやって来るのだ。

人間は、仏教の教えによると、「生老病死」という苦をもって生きている。生まれてきた瞬間から、死に向かって、苦しまなければならない運命を背負っている。

さまざまな苦しみや試練を背負ってまで生きている意味や目的は何だろう?

生きる意味も、幸せの価値観も、本当のところはまだわからないけど、もしかしたら、それを教えてくれるのは、認知症の人たちかもしれない。「役に立たない」と軽視されている人こそ、実は一番「役に立つ」人かもしれない。

ちなみに、スズランの花言葉は、「幸せ」。誰かの幸せを祈るこころが、本当の幸せなのかもしれない。

tone
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# by tonepedra | 2012-05-19 20:14 | 人生の教え/生きる智慧