あをによし 奈良の都の 薬草曼荼羅

toneriver.exblog.jp
ブログトップ

カテゴリ:人生の教え/生きる智慧( 7 )

一陽来復のお守り

f0223014_23253684.jpg

f0223014_23253675.jpg

今日は、早稲田の穴八幡宮をお参りしてきた。
松の内を過ぎたが、土曜日ということもあるためか、境内は参拝客で賑わっていた。

穴八幡宮は、金銀融通や商売繁盛にご利益があるとされ、昔から多くの人々から信仰されている。

穴八幡宮では、冬至から節分までの間にだけ頒布される特別なお守りがある。「一陽来復御守」は、金銀融通のお守りで、円すい形をした、ちょっと変わったお札である。

「一陽来復御守」は、冬至、大晦日、節分のいずれかの夜中の0時にお祭りすることになっている。お祭りする方角は、毎年異なり、柱か壁のなるべく高い場所に貼ることになっている。

冬至は、昼間の時間が最も短く、夜の時間が最も長い日とされている。昔の人は、冬至に向かって日が短くなると、太陽の力が弱くなって人間の魂も衰える、と考えていた。しかし、冬至を過ぎれば、太陽の力は蘇り、人間の魂にも精気が戻るとされていた。そのため、冬至は、「一陽来復」と言われ、太陽の力が復活する日とされて、日本だけでなく世界の各地で、冬至は昔からお祭りされていた。

冬至、大晦日、節分、どの日も、冬が終わって春が来ることを意味する。しかし、冬至は、太陽が復活する日であることから、最も大切な日である気がする。なぜなら、太陽は、いのちの源であり、こころに活気を与える光であるからである。クリスマスは、キリストの誕生日を祝う日であるが、ヨーロッパの古来の冬至祭と結びついたという説があるのも、偶然ではない気がする。昔の人にとっては、現代以上に、太陽の力が、大切なものであったはずだ。

これから、ますます寒い日が続くが、太陽の力や自然の恵みを感謝して生きていけるようにしたい。

tone
[PR]
by tonepedra | 2014-01-11 23:25 | 人生の教え/生きる智慧

純なこころ

年齢を重ねるにつれて、人間の心理状態や周囲との人間関係は、どんどん複雑になり、時に歪み、時にドロドロとしたものになってくる。なかなか純粋なこころを保てなくなってくる。それは、大人になった証拠でもあるが、同時に、たいせつな何かを忘れて生きていることでもある。
子供の頃の純粋なこころをずっと持ち続けることはできるだろうか?
まったく同じに、というわけにはいかないが、ある程度は、持ち続けられている人たちが、私の周りには数人いる。純粋なこころをもっている人たちは、ひとたび夢中になれるものが見つかると、誰が何と言おうが構わず、それをひたむきに追いかけ、ひたすらそれに夢中になり続けるのだ。もちろん、仕事や家事や、やらねばならないことはやるが、それ以外の時間は、大好きなことに打ち込む。それは、趣味であったり、娯楽であったり、有名人やアイドルの追っかけであったりするわけだが、たとえ、他人からどんなに馬鹿馬鹿しいとか意味がないとか言われたり笑われたりしても、絶対にひるむことはない。
私も、そんな強い信念をもって、生きていきたい。

ある人に、こう言われたことがある。
女性に必要なものは「食欲」「趣味・熱(情熱)」「性」「純なこころ」であると。
AB型は二重人格だと世間から言われている上に、もともと性格があまのじゃくで歪んでいる私に、「純なこころ」を求められること自体、正直ハードルが高い(笑)。
でも、好きなものを追いかけるこころなら、持てる気がする。

「純なこころ」をもつことは、簡単なことかもしれない。
でも、簡単なことが、実は、一番難しい。

tone
[PR]
by tonepedra | 2013-01-18 14:48 | 人生の教え/生きる智慧

いのちの木

今日、法事でお坊さんのお話を聴いた。

お釈迦様は、「無憂樹(ムユウジュ)」(マメ科)という木の下で生まれ、「菩提樹(ボダイジュ)」(クワ科)という木の下で悟りを開き、「沙羅双樹(サラソウジュ)」(フタバガキ科)という木の下で亡くなった(これらの3つの樹は、仏教の三大聖樹とよばれている)。沙羅双樹はもともとピンク色の花であるが、お釈迦様が亡くなったときに、白になったという。
また、お釈迦様は、草原の中の、一本の大きな木の下で説法することが多かったが、そのような木のことを、「道場樹」という。木の下というのは、人が集まる場所でもあり、いのちが生まれ、育ち、死んでゆく場所でもある。
幸田文の『木』という本では、「倒木更新(とうぼくこうしん)」ということが書かれている。東北のエゾマツは、100年くらい経つと倒れて、数年かかって腐るという。腐った木の穴に種が落ち、芽を出し葉を出して、次のいのちがつながっていく。木のあるところには、いつもいのちがある。倒木更新は、原生林のようなばしょでしかみられないそうだが、ひとつのいのちが死んでも、なお新しいいのちを育み、いのちをつないでいる。このような木(森、原生林)は、歴史をもち、条件をつけずに、すべてのいのちを支えている。
…というような内容のお話だった。

木は、よく人生の成長発達にたとえられる。
木は、ひとつの小さな種から芽を出し、葉を出し、枝を伸ばして、花を咲かせ、実を結び、そしていつの日か枯れていく。太陽の光や空気や雨水や大地(風火水土)の恵みを受けながら、虫や鳥とも共存して生きていく姿は、人生がたったひとりではないということも教えてくれる。
木は、私たち人間に、良いとも悪いとも言わず、ただそこにいてくれている。
そして、いのちを支えている。

人はいつの日か寿命を終えて死を迎えるが、死んでもなお、残された人々のこころに残っている。良いことをしたとか悪いことをしたとか、誰かの役にたつとかたたないとか関係なく、どんな人のいのちも尊い。そのことに感謝して、生きていきたい。

tone

(下の写真は、関係ないけど、数年前に見た東大寺の紅葉)


f0223014_2034332.jpg

[PR]
by tonepedra | 2012-12-07 21:18 | 人生の教え/生きる智慧

大きな楠の木の下で

f0223014_11323283.jpg

f0223014_11323268.jpg

今日は、午前中に研修会の予定だったが、突然中止になったので、近くにある千葉・大巌寺にお参りに行った。
お寺さんには、ご神木のような素晴らしいクスノキ(楠)があった(お寺さんなのに、ご神木というのも変か)。
淡い桃色のフヨウ(芙蓉)の花も美しく咲いていた。

クスノキの傍らには、こんな詩があった。


「一本の木を見つめていると」

一本の木を見つめていると
神とか仏とかいうものが
よくわかってくる
見えないところで
その幹を
その葉を
その花を
その実を
作っていってくれる
根の働きは
見えないところで
私たちを養って下さっている
神とひとしく
仏と同じである
見えないものを見る目を持とう
見えないものを知る心を持とう

(坂村真民『詩集詩国』第一集)


見えないものを見るということは、こころの眼で見る、ということである。五感を働かせ、第六感も働かせて、感性や感受性を磨き、こころを広く豊かにしなければ、見えないものは見えてこない。

私たちは、見えない力に支えられて生きている。それが、神なのか、仏なのか、自然なのか、宇宙なのか、よくわからないけれど、とにかく、何かに支えられて生きている。

一本の木をじっと見つめていると、何が見えてくるだろう?

クスノキの近くでは、アオスジアゲハが優雅に飛んでいた。来年も、この木からはたくさんのアオスジアゲハが飛び立つだろう。
時が来て、ひとつのいのちが死んでも、また別のいのちが生まれ、いのちは手をつなぎ、こころをつないで、続いていく。

生きる意味も、生きる目的も、本当のところはよくわからない。神や仏がいるのかさえも、やっぱりわからない。たぶん死ぬまでわからないだろう。

人の一生も、アオスジアゲハの一生も、クスノキの一生も、同じひとつのいのち。どんないのちも、見えない力に支えられて、見えないところでつながって生きている。

大きな楠の木の下で、夏の暑さと時折吹いてくる爽やかな風を感じながら、生きる意味や目的はわからなくても、生きる意欲をもちつづけようと思った。

tone
[PR]
by tonepedra | 2012-08-24 11:32 | 人生の教え/生きる智慧

生きる意味と幸せの価値観

f0223014_20145084.jpg

今日、浜松のアクトシティで行われた認知症ケア学会に参加した。

一番こころに残ったのは、パーソンセンタードケア(その人らしさを尊重したケア)やDCM(認知症ケアマッピング)を広めたことで有名な水野裕先生の「理念を実践に」というお話だった。

今の日本の社会は、工業生産や経済効率が尊ばれる社会である。生産性や効率性が社会の原動力であり、それは、日本人の価値観や倫理観にも、無意識のうちに影響を及ぼしている。
現代社会では、効率性と生産能力が高い人が、「役に立つ」人、「価値がある」人として評価される。そして、生産できない人は、「役に立たない」人、「価値がない」人として、とらえられがちである。
つまり、高齢者や認知症の人、病気や障害をもった人は、生産能力が低いため、社会の中で「役に立たない」「価値がない」人として見られてしまう傾向がある。

そして、認知症ケアに携わっている私達も、生産できない人をケアしているとして、社会から軽視されがちであるのが現状である。

そもそも、認知症については、「認知症が進まないように(悪化しないように)するほうが良い」と、一般的に考えられており、認知症の介護・看護専門職でさえも、そのような考え方のもとに、ケアプランを立案している。でも、それは、日本人全体の意識の中に、「認知症になったら、不幸になる」という暗黙の差別・偏見があるからなのだ。

では、幸せとは何なのだろうか?
生産能力がない人は、生きる意味がないのだろうか?

私達がふとした瞬間に感じる幸せって、美味しいものを食べたり、好きなことや楽しいことをしたり、好きな人のそばにいたり、誰かにほめられたり必要とされたりする時ではないだろうか。

本当に幸せな社会とは、「役に立たない」と軽視されている人こそが尊重され、生きる意味や価値を認められる社会であるはずである。
人間は誰でも、生まれてきたからには、病気もするし、老化して、いつかは死ぬ。認知症になることもあるし、癌になることもある。どんな立派な人間でも、「生産できない」「役に立たない」とされる日がやって来るのだ。

人間は、仏教の教えによると、「生老病死」という苦をもって生きている。生まれてきた瞬間から、死に向かって、苦しまなければならない運命を背負っている。

さまざまな苦しみや試練を背負ってまで生きている意味や目的は何だろう?

生きる意味も、幸せの価値観も、本当のところはまだわからないけど、もしかしたら、それを教えてくれるのは、認知症の人たちかもしれない。「役に立たない」と軽視されている人こそ、実は一番「役に立つ」人かもしれない。

ちなみに、スズランの花言葉は、「幸せ」。誰かの幸せを祈るこころが、本当の幸せなのかもしれない。

tone
[PR]
by tonepedra | 2012-05-19 20:14 | 人生の教え/生きる智慧

人生の道草

f0223014_1843371.jpg

今日、公園を散歩していたら、カラタネオガタマ(唐種招種または唐種小賀玉、学名:Michelia figo、モクレン科)の花が咲いているのを見つけた。

カラタネオガタマは、中国原産で、江戸時代に渡来した、高さ3〜5mの常緑樹である。バナナのような香りがするのが特徴的である。和名のオガタマは、神道の「招霊」(おぎたま)から転化したもので、「神の木」ともいわれ、神社にもよく植えられており、昔から神事に用いられてきた。また、俳句の季語としても用いられる。
5〜6月、初夏から梅雨にかけてのつかの間の時期、ひっそりと咲くこの花は、あまり目立たない。しかし、地味でありながら清楚で可憐な姿は、薫風のように、こころをそっと爽やかにしてくれる。

実は、この木は、私が住んでいるマンションの庭にもあるが、ここに引っ越してくるまで、私はこの木について何も知らなかった。自分が行ったことがある公園や神社にも、カラタネオガタマの花は咲いていたはずなのに、子供の頃も、大人になってからも、この花の存在に気づかずにいた。
思えば、私は、今まであまり周りの環境を観察せずに、あるいは周りの人に目配りや気配りをせずに、自分勝手で独りよがりに育ってきたのかもしれない。

子供の頃、私たちはよく「道草」をした。「道草」とは、「目的の場所へたどりつく途中で、他のことに関わって時間を費やすこと」であり、大人から見れば「時間の浪費であり、意味のない行為」としてとらえられがちである。しかし、環境心理学では、道草は「子供の精神的な成長・発達」や「子供の社会化」に役立つといわれている。今では、大人の都合と欲望に照らし合わされた都市開発がされて、子供達が安心して道草を楽しめるような環境はなくなりつつあるが、その一方で、安心して道草ができるまちづくりの重要性が高まってきている。

大人になった今の自分に足りないものは、他者への気配りや配慮、優しさだと感じているが、それは、道草が足りないせいかもしれない。
ウォーキングは、健康維持のために重要だといわれているが、ただひたすら歩くウォーキングよりも、何かに気づき、立ち止まり、じっと観察したり、思わず夢中になったりするような道草のほうが、人生において、ずっと大切なことであるような気がする。

人生には、幸せも不幸も、喜びも悲しみも、成功も失敗もたくさんある。人それぞれ、人生でさまざまなことを体験するが、たとえ、人生がマイナス方向にいったとしても、道草をするようなこころのゆとりがあれば、あるいは道草をした時の経験や気持ちを思い出せば、たぶんほんの少し幸せに近づける気がする。

人生には、まっすぐひたすら歩くことも、時にはぶらぶらと寄り道することも、どちらも大切。でも、こんな世の中だからこそ、大人も子供も、もっと道草をして、笑顔になれればいいな。

tone
[PR]
by tonepedra | 2011-05-31 18:43 | 人生の教え/生きる智慧

ミラ先生のこと、グルーポ・ダ・ピンガのこと

今年1月に、悲しいお知らせが届いた。
以前、ポルトガル語を教えていただいたミラ先生が、ブラジルで亡くなられたのだ。

ミラ先生は、私がまだ豊洲で働いていた頃、豊洲文化センターの「ポルトガル語講座」でお世話になった。
講座が終了したあとも、有志で、グルーポ・ダ・ピンガ(Grupo da pinga)という集まりを作り、ミラ先生からポルトガル語を学んでいた。ちなみに、ピンガとは、ブラジルのお酒で、サトウキビから作られる蒸留酒のことである。レモンやライムで割ると美味しい。直訳すると「ピンガの集団」、つまり酔っ払いの集まりということになる。

ミラ先生からは、ポルトガル語はもちろんのこと、日本の文化、宗教、精神性などさまざまなことを学んだ。私が日本の仏教や仏像に関心を持ち始めたのも、今思えば、ミラ先生の影響が大きかったのかもしれない。
ミラ先生から教えていただいたことで、一番こころに残っていることは、「調和」のことである。
人間にとって、大切なのは、愛とか平和ではない。愛には憎しみが、平和には戦争が対をなしている。でも、「調和」とか「和」とかいう言葉には、反対をさす言葉はない。これからは、「調和」「和」を重んじる精神が大切だと学んだ。そして、そのヒントが、仏教や日本の文化にあるということも教わった。
私が、仏教や仏像を通して、奈良を好きになったのも、ミラ先生の教えのおかげである。

グルーポ・ダ・ピンガは、ミラ先生が病気になられてブラジルに帰国されてから、自然消滅のようになってしまったが、最近、仲間のお一人が、別の場所で再びポルトガル語を学び始めたと聞き、ミラ先生の精神が生きていると感じられ、とても嬉しかった。
私ももちろん、ポルトガル語を学びたい気持ちはあるが、ミラ先生から学んだ日本の文化や宗教、精神性のことを、もう少しきちんと学んでからにしたい。
そして、このブログで、ほんの少しでも、日本の文化や宗教や精神性を伝えることができたら、ミラ先生への恩返しになるかなと勝手に思っている。

tone
[PR]
by tonepedra | 2010-05-03 07:23 | 人生の教え/生きる智慧